『葬式の名人』は葬式の名人か

※この駄文は『葬式の名人』並びに『仁義なき戦い』シリーズのネタバレを含みます。

  『葬式の名人』の試写会が行われた後、実に多くの茨木高校生が感想や批評を投稿した。ほとんどが酷評であったため、質の悪い映画であるという点は実際に見ていない茨高生でも良く知るところであろう。確かに映画としてのクオリティは非常に低く、理解に苦しむ映画であることは間違いないが、どのような点がこの映画のクオリティを下げているかに関してはきちんと考察している人間は少ないように思われる。そこで『葬式の名人』の最大の問題点について愚にもつかない駄文をしたためる。

  私は昨年9月の公開以来『葬式の名人』について問題点を明らかにしようと、折に触れて考察してきた。特に映画評論を読んだ際や傑作とされる映画を見た際にそれらを『葬式の名人』と照らし合わせ比較し考察を深めた。最大の問題点を理解したのは深作欣二監督作品『仁義なき戦い』シリーズを鑑賞したときである。『仁義なき戦い』シリーズは戦後の広島におけるヤクザの抗争を描いた名作である。『仁義なき戦い』シリーズは5部作であり、そのうち4作が葬式のシーンで終わる。特に3作目『仁義なき戦い 代理戦争』と5作目『仁義なき戦い 完結編』では主人公・広能の組の若者の葬式が描かれている。『~代理戦争』では焼骨のあと遺骨を持って火葬場からでた広能が襲撃され、遺骨が道路にばらまかれてしまい、それをみて泣き崩れる死んだ若者の母の姿が、『~完結編』では抗争の末死んだ息子の死に装束を泣きながら整える母の姿がどちらも実に印象的に描写されている。これらのシーンは主人公・広能に大きな影響を与えるシーンとして扱われている。『仁義なき戦い』シリーズでは実に多くの登場人物が死ぬが、その一人一人が誰かの息子であることをこれらのシーンが我々に想起させる。葬式や葬式を取り巻く人々の悲しみが実に良く表現されている。

  『葬式の名人』に話を戻す。先述のシーンが『葬式の名人』の問題点を理解するためのカギとなる。『葬式の名人』の内容については今更記述する必要もないと思われるが、大まかなあらすじとしては「高校時代の同級生(吉田)が交通事故で亡くなったために、昔の仲間が集まり母校・茨木高校で葬式をあげる」という内容である。主人公(前田敦子)たちの年齢は卒業から10年たった28歳という設定である。主人公たちは高校を訪れて事故に会った吉田のためといい遺体を棺桶に入れて運び校内を徘徊し、食堂で通夜を行う。ここが映画の根幹となる部分であるが、ここに問題はある。吉田の両親の存在が非常に希薄なのである。吉田の両親はこういった非常識な提案をする息子の同級生らに対し、「皆さんがそうしたいならそうしてください、息子も喜ぶと思います。」と述べるだけなのである。確かに息子の死に対し受け入れ落ち着いているのであればそういった対応も考えられる。しかしこれらの提案がなされたのは吉田の死の当日と翌日である。息子の死、しかも28歳という非常に若い年齢での死かつ交通事故という心の準備をする余裕のない死に対して1日もしないうちに受け入れることができるのだろうか。先述した『仁義なき戦い』で描かれた息子を失った親のような悲しみの描写は『葬式の名人』ではあまり描かれない。吉田と同級生の青春を描くことに重きを置くあまり故人の家族をあまりに蔑ろにしすぎていることがこの映画から説得力を失わせ陳腐な作品にしてしまうのではないか。主人公らは吉田との思い出の詰まった高校で吉田と過ごし葬式もどきを行い満足するだろう。しかし吉田の両親にも息子との思い出がすべて詰まった家がある。両親が家で亡き息子と過ごす時間を奪い自分たちの要望を満たさせる主人公たちの行動に全くをもって共感することができない。劇中吉田の父親が「あとは親族だけで。久しぶりに息子のそばにいたい」という旨のことをいうシーンがあるのだが、その発言は気を使っての発言のように扱われ、主人公らは「葬式の名人やから」という決め台詞を発し高校での葬式もどきを継続する。主人公らが自分たちの青春時代を追体験したいというあさましい感情によって行動し、故人を惜しむ気持ちも故人の両親を慮る気持ちもない狂人集団に見えてしまうのである。また学校で葬式もどきを行うことを正当化するためだけに登場するのが非常に悪しざまに描かれる葬儀屋である。遺体の安置場にきてお悔やみを言わない、料金の話ばかりするというように葬儀屋としての常識がないような行動をし、見ている人間に対し「ありえないだろこんな葬儀屋」という感想を抱かせる。しかしこのような葬儀屋も主人公らも吉田の死を利用していることに変わりはなく金か青春の追体験かしか違いはない。このように『葬式の名人』の「葬式」から死を悼む人々の様子を読み取ることができない。自らの子の死を悼む親を蔑ろにして若者の死を描くことができるわけないのだから。『葬式の名人』は「葬式の名人」と名乗るに値しない葬式や人の死を軽んじた作品であるといえよう。

 

  『葬式の名人』の「葬式」について述べたがこれは最大の問題点であり、この他にも細かい問題点や不出来な点は数多く存在する。それらについても今後書いていきたい。この映画を見た茨木高校生は周りに流され「前田敦子がヘタクソだった」(前田敦子演技別にうまくはないけど『さよなら歌舞伎町』では微妙にうざい感じがめちゃくちゃ良いので見ような)のような陳腐な批評をするのではなく実際に細かく見て自身の一番よくないと感じた点を突き詰めることが映画批判のあるべき姿であり脚本家大野裕之の言う「茨高らしさ」とやらではなかろうか。ということで皆見ような!(『葬式の名人』見る時間と金があるなら『仁義なき戦い』見ろ)

葬式の名人

葬式の名人

 

 

仁義なき戦い

仁義なき戦い